大和屋シャツ店 銀座本店 会社情報
一般情報
【創業140周年 受け継がれる「日出ずる国 大和の心」】
~薄れはじめた日本人の魂を今も脈々と受け継ぎ、世に送り出している店がここにある~
1873年(明治6年)、波乱に満ちた幕末時代の終焉がまだ冷めやらぬ中、開港と維新の熱気が渦巻く横浜で、寄港中の外国船に乗船していた西洋人が、ある18歳の日本人青年に衣服を譲り渡した。
その時、西洋人は少年にその衣服のことを「ホワイトシャツ」と言ったのだが、少年はそれを「ワイシャツ」と聞き間違えてしまった。
こうして、「ホワイトシャツ」が「ワイシャツ」に間違えられ、「ワイシャツ」という言葉が出来たエピソードは比較的知られている話だが、この聞き間違えた青年こそ、日本人として初めてワイシャツを研究・自作し、やがて日本初となるワイシャツ店『大和屋シャツ店』を開く石川清右衛門その人である。
石川清右衛門はこの今まで見たこともない白い衣服に心奪われ興味をもち、入手したワイシャツを片っ端から解体しては、また縫い直す。これを繰り返し繰り返し行い、ワイシャツの構造を徹底的に学んだ。こうして学んだ技術を次は生地を裁断し縫い合わせ、ついにワイシャツの自作に成功した。
当時の生地はカナキンという木綿の布で水につけるとかなり縮むものであったので、石川清右衛門は生地を先に水洗いし、乾燥させ、あらかじめ縮ませてから裁断する工夫を考案した。
こだわり続け、丹精を込めて作られたワイシャツは、1876年(明治9年)関内・弁天通りで、石川清右衛門が開業した『大和屋ワイシャツ店』で、近在にあふれる外国人相手に売られるようになっていった。
そして、しばらくするうちに幾多の世界博覧会で一流の技術と賞賛され、大正時代には、銀座、神戸のほかニューヨーク、中国の天津に支店を持つまで発展した。
この頃になるとラフカディオ・ハーン’(小泉八雲)や、英国皇太子プリンスオブウェールズ、32代米国大統領となるフランクリン・D・ルーズベルトも顧客としていた。また、当時日本人客はごく少数だったが、その中に明治天皇、大正天皇もいた。
後継ぎの石川正七(1888~1982)は後年、こう述懐している。
「大正天皇のご用を受けた時、銀座の支店長が採寸にうかがった。といっても、直接寸法を取ることなどできず、3メートルくらい離れたところから見当をつけて測った。えらい時代だった。」と・・・
そして、このときこの繁栄の勢いが曇ることなど誰も微塵も想像をしていなかった。
1936年(昭和11年)創業者清右衛門死去。
自ら研究、製造を始めたワイシャツだったが、一度も袖を通さず、和服で貫きとおした81歳の生涯だった。
大和屋はその後、清右衛門の長男、石川正七の代に苦難の時代を迎える。
正七の六男で、前大和屋シャツ店専務の石川哲夫がこう語っている。
「戦時下1943年(昭和18年)の企業整備令で、国内の産業は軍需一本に絞られ、大和屋は『平和産業』として営業停止になりました。そして2年後の5月 29日、横浜大空襲で、すべてが失われました。そして2年後の5月 29日、横浜大空襲ですべてが失われました。父の正七と二人、三渓園の入り口わきに身を潜めてB29の攻撃から逃れた後、丘に上って大和町を見下ろすと、 町は一面の焼け野原でした。関東大震災でも軽い被害ですんだ工場と邸宅が、跡形もなくなっていました。弁天通りの本店も・・・」
しかし、大和屋はこの苦境を見事に乗り越え1953年(昭和28年)に再興を果たす。が、それは横浜ではなく、東京・京橋だった。
そしてその4年後、正七は銀座6丁目に本店を構えた。時代が流れ、商売の相手が日本人となれば、中心はやはり東京。海外輸入の拠点だった横浜の役割からのバトンタッチだった。
6代目現社長、石川成実は語る。
「オーダーメイドの先駆として、今後も本物のシャツを作り続けます。」
激動の日本においてもなお変わらないシャツ屋がここにある。
Chūō-ku Chūō-ku
- 営業時間
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月曜日:11:00 - 19:30火曜日:11:00 - 19:30水曜日:11:00 - 19:30木曜日:11:00 - 19:30金曜日:11:00 - 19:30土曜日:11:00 - 19:30日曜日:11:00 - 19:30
- 電話番号
- +813-3571-3482
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